この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第117回
斎藤智
ビスノーは、お客さんをいっぱい乗せて出航するところだった。
「チョー満員だね」
ビスノーは、進水式に参加してくれたお客さん、皆を乗せて、横浜マリーナの港内をぐるっと機走で一周してくることになったのだ。
「私と佳代ちゃんは、さっき乗ったし、マリーナで待っているね」
麻美が隆に言った。
ビスノーのデッキは、あまりにもお客さんでいっぱいで、進水式の参加者全員は、とても乗りきれそうもなかった。
麻美と佳代は、横浜マリーナでお留守番だ。
「私も、待っているから、美幸は乗って来なさい」
船酔いが恐い中島さんの奥さん、美幸の母親も、横浜マリーナで待っていることになった。
「乗ります」
美幸は、ライフラインのロープを乗り越えて、船に飛び移った。
「大丈夫かな…」
隆が、手を差し出して、美幸が船に乗り移るのを手伝っていた。
船尾のコクピットが、もう既にお客さんでいっぱいだったので、隆たちラッコのメンバーは、船首のフォアデッキに集まって、デッキの床に直接座りこんでいた。
「隆さんが、舫いのロープを整理しているの初めて見た」
隆が、ポンツーンから外した舫いロープを船首のクリートにまとめているのを見て、ルリ子が言った。
「そうだよな、俺は、別にこの船のクルーじゃないんだけど、なぜか舫いロープの整理してしまっているよ」
隆が答えた。
オーナーの中島さんは、船尾のコクピットで舵を握っているし、ビスノーのクルーも、船尾側の舫いロープを外して、船尾にいて、サイドデッキには、お客さんがいっぱい乗っているので、船首側に移動できなかった。
「本当は、美幸ちゃんがロープをまとめなきゃいけないんじゃないの」
「え、そうか。私がビスノーのクルーだったのよね。でもまとめ方よくわからないよ」
美幸は、洋子に言われて答えていた。
「こんな風に、舫いロープの片方を船首のクリートに結んでから、ロープをくるくるって巻いておくの」
洋子は、隆が片付けた舫いロープを見せながら、美幸に説明した。
「ああ、なるほど」
「こうしておけば、後で港に戻って来たときに、反対側のロープを持って降りれば、そのままポンツーンに結べるでしょう」
「そうか!よくわかった」
美幸は、洋子に教えてもらって、なんとなくヨットの舫いの扱い方がわかってきたようだった。
美幸とラッコのメンバーは、ビスノーの船首で話しているうちに、すっかり仲良くなってしまった。
「それで、港に戻ったら、美幸ちゃんの落水かな…」
「落水?」
「うん。船の進水を記念して、皆で海に落としてあげるよ。進水式のときは、その船のオーナーさんを、皆で海に落として、進水を祝ってあげるんだよ」
「ええ、そうなの。じゃ、お父さんを落とさなきゃ」
「お父さんは、海に落とすと年輩の方だし、なんかあると大変だから…」
「それで、代わりに娘の私に、海に落ちろって」
美幸が言うと、隆は黙って笑顔で微笑んでいた。
落水式
美幸は、キャビンから出るのに、フォアデッキのハッチから出入りしていた。
「どこから出てきているの?」
フォアデッキから顔を出して出てきた美幸を見て、麻美は笑いながら聞いた。
「だって、後ろの出入り口からだと、人がいっぱいで、こっちに来れそうもないだもの」
「それで、ここから出入りしていたんだ。よく通ったね、こんな狭いところ。私じゃ無理かも、太すぎて」
ルリ子が美幸に言った。
「オーナーのお嬢様なんだから、もっと堂々と、すみませんって避けてもらって出入りすれば良かったのに…」
麻美に言われて、美幸は苦笑していた。
「着替えてきたよ」
美幸は、隆のところに行って、隆に話しかけた。
「着替えて?」
「うん。上は前と同じ服だけど、下にちゃんと水着着てきたの。これで落ちても大丈夫よ」
「落ちて?本当に落ちる気でいるんだ?」
隆は、冗談のつもりで美幸に言ったのに、美幸は、すっかり落水してもらう気になっていた。
「それじゃ、港に戻ったら落水式やろうか」
隆は、洋子たちに言った。
横浜マリーナの前の水路をぐるりと機走で一周してきたビスノーは、また横浜マリーナのポンツーンに戻って来た。
クルーが船尾の舫いロープを持って、ポンツーンに飛び移ってクリートに結んだ。
船首の舫いロープを持った隆も、ポンツーンに飛び移ると、船首側のクリートに結びつけた。
ビスノーが、ポンツーンにしっかり停泊し終わると、乗っていたお客さんたちは、順番に船を降りた。
「よし、落とそうか!?」
隆の一声で、洋子、雪、ルリ子たちは、美幸の両手、両足を一本ずつ抱えて、ポンツーンの端まで美幸を連れていくと、そこから一斉のせいで美幸の体を振って、海にどぼんと落とした。
隆たちが、ポンツーンでわいわい騒いで美幸を落とすところを、ほかの船に乗っていたお客さんたちも、一緒になって歓声を上げて、眺めていた。
海に落とされた美幸が、びしょびしょに濡れた髪で泳いで、ポンツーンに戻って来た。
その美幸の体を、隆が手を差し出して、引っ張り上げる。
大きなバスタオルを持って、眺めていた麻美が近づいて、美幸の体を拭いてあげている。
「11月だし、風邪を引かないように、更衣室に行って、しっかり体を暖めなきゃね」
麻美が、バスタオルで美幸の髪を拭きながら言った。
「よし!今度はオーナーの番だ!」
美幸が落ちるところを歓声を上げて眺めていた男性陣が、誰からともなく叫ぶと、まだビスノーのデッキに残っていた中島さんのところに行き、中島さんのことを担ぎあげていた。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。