この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第163回
斎藤智
9時からレースの艇長会議だ。
麻美が参加することになった。
「私、なんにもヨットレースのことわからないよ」
隆に麻美が参加して来るようにと言われて、麻美は言った。
ヨットレースでは、レースの始まる前にレースのコースやルールの説明とかで、レース運営本部に参加艇の艇長や代表が集められて説明を受けるのだった。
その艇長会議にマリオネットの代表として参加することになった麻美だった。
「洋子ちゃん、一緒に行こう」
艇長会議に行く前に、一人で行くのが不安な麻美は、洋子のことを誘って一緒に向かった。
「あれ、洋子は?」
いつの間にか、いなくなっていた洋子に気づいて隆が言った。
「洋子ちゃん、麻美ちゃんと一緒に艇長会議に行ったよ」
「一人で行けばいいのに…」
隆は、麻美のことをつぶやいていた。
「それでは、艇長会議を始めます」
麻美たちが、港入り口にある小屋、レースの運営本部に行くと、今日のレース参加者の人たちが皆、集まっていた。
空いている席を見つけて、麻美たちは座って会議の始まるのを待っていた。 時間になって、レースの運営委員の人がやって来て、今日のレースのコースなどを説明し始めた。
「ここからここまでが機走のコースです。ここを過ぎたら、帆走のコースです」
運営委員の説明は続く。
今日のヨットレースは、ゴールデンウィークの連休に熱海に遊びに来た観光客に見せるために熱海市が企画した観光PRのためのレースのようだった。
普通、ヨットレースといえば、エンジンの使用は禁止、セイリングで風の力のみで競いあうのが一般的だった。
それが今日のレースは、スタート直後とゴール寸前は、あえてエンジンを使って競い合うようにというルールだった。
ヨットレースを観戦する観光客が港の岸壁にいっぱい集まってくるのだそうだ。
その観戦者たちに、熱海市観光課としては迫力あるヨットレースを見せたいので、港内の隅にスタートラインを設置して、そこをスタートしたら港内から出るまでのコースを機走で走らせて、その後、港を出たらエンジンを停めてセイリングに移って、初島まで行って、島を一周して戻ってきたら、港の手前でまたセイリングをやめてエンジンをかけて、最後の港内のゴールまでのコースを機走でデッドヒートを繰り返してもらおうというのが目的のようだった。
「なんか面白いね。エンジンを使ってもいいヨットレースなんて」
艇長会議が終わって、ヨットに戻る途中で、麻美は洋子に言った。
「もしかしたら、マリオネットに有利かもしれなくない」
洋子が答えた。
「どうして?」
「だって、セイリングだけじゃなくてエンジンも使っても良いんだよ。エンジンの強いモーターセーラーに有利じゃない」
「そうか。それじゃ、もしかしてラッコで出ても勝ち目あったかもね」
麻美が言った。
「たぶん、ラッコじゃ勝ち目ないかも」
「どうして?」
「だって、私たちって何もヨットレースの練習したことないじゃない」
麻美は、洋子に言われて、普段のラッコでのセイリングを思い返してみた。
確かに、いつも横浜マリーナの暁さんなんか必死にレースの練習をしているときに、ラッコで私たちは、のんびりだらだらヨットを走らせているだけだなと思った。
レーススタート!
麻美たちがヨットに戻ると、マリオネットの出航準備は既にすっかり終わっていた。
ラッコは、熱海港に停泊しっぱなしで、レースには皆でマリオネット一艇で参加しようというのだ。
普段、ラッコに乗っているメンバーも、マリオネットのメンバーも、皆一緒にマリオネットで出航する。
出航準備するのも、いっぱい乗組員がいるので、皆であっという間に終わってしまっていたのだった。
「レースのコースは?」
隆は、艇長会議から戻ってきた麻美に聞いた。
「洋子ちゃんが知っている」
ヨットレースとヨットにあまり詳しくない麻美は、隆にそう返事した。
「艇長会議、麻美はぜんぜん聞いていなかったんだ」
「私が聞いても、わからないし、間違ってもいけないと思ったから、洋子ちゃんに全部おまかせで聞いてもらったの」
麻美は、平然と特に悪びれる様子もなく笑顔で隆に答えていた。
洋子が、隆に艇長会議でもらってきた紙を広げて説明した。
中野さんやマリオネットのクルーとかも集まって来て、隆と一緒に洋子の説明を聞いている。
「へえ、それじゃ、レースのスタート直後とゴール寸前ではエンジンをかけていいんだ」
隆は、洋子の説明を聞いて驚いた。
「エンジンかけても良いのだったら、マリオネットにも勝ち目あるかもしれないな」
中野さんは、そのルールに喜んだ。
マリオネットの横に停まっていたレースの参加艇がポンツーンを離れて出航した。
「うちも出航するか」
マリオネットも、ポンツーンに結んであったロープを外して出航した。
レースのスタート時間までマリオネットや参加艇は、スタート海域近辺でうろうろ回っていた。
「隆君、頼むよ」
レースのスタート時間が近づいてきて、それまで舵を握っていた中野さんは、隆に舵を譲った。
隆は、中野さんに言われて、舵を交代した。
「航路ブイを越えたら、エンジンを切ってジブファーラーを開くから、ファーラーをすぐに開けるように用意しておいて」
隆は、レースの針路を決定しながら、皆に指示を出した。
「私が、エンジンのスイッチ切ろうか?」
麻美は、パイロットハウスのところでエンジンのスイッチをいつでも切れるように待機していた佳代に言った。
「大丈夫」
佳代が麻美に答えた。
「ほら、エンジンのスイッチ切るぐらいだったら、私にも出来るから。佳代ちゃんは、表で皆とセイルトリムしたほうが良いでしょう?」
佳代は、麻美に言われて、エンジンのスイッチは麻美に任せて、自分はデッキに出て、メインセイルのセイルトリムの担当に回った。
ピーーー
レーススタートの笛が鳴って、レースがスタートした。
スタートライン付近にいた36フィートのレース艇が真っ先にスタートして行く。
しかしながら、今回のレースは、スタートして直後はエンジンを使用して機走で競争するのだ。
船体を軽くすることに徹底しているレース艇は、そんなに馬力のあるエンジンを積んでいない。
比較的大きめのエンジンを積んでいるマリオネットのほうが馬力があるので有利だ。
マリオネットは、先にスタートしたレース艇を馬力の大きなエンジンで次々と抜いていった。
「なんか、普段前のほうを走っているレース艇を抜いて行くのって、気持ちいいですね」
中野さんは、嬉しそうに舵を握っている隆に話していた。
マリオネットのオーナーの中野さんもニコニコとご機嫌になっていた。
エンジンの力でみるみるうちに、マリオネットは、レースの先頭を走るようになっていたのだった。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。