シングルハンダー

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第75回

斎藤智

海王のオーナーの大久保さんは、シングルハンダーだ。

若い頃、36フィートのレース艇に乗っていた頃からは、いつも若い男性クルーをたくさん乗せていたのだが、クルージング主体の今は、いつも一人でヨットに乗っている。

一人で全部ヨットを操船することをシングルハンダーと呼んでいる。

「マル、元気。おまえも大島に連れてきてもらったの?良かったね」

麻美は、海王のデッキの上を走り回っている黒い犬に声をかけて、撫でていた。

大久保さんは、シングルハンダーといっても、正確には、いつも愛犬のマルと一緒に同乗していた。

マルは、まっ黒い大型の犬で、細長い精悍な顔つきをしている。顔つきが鋭いので、初めて会った人は皆、大概、マルのことを恐がってしまうが、外見とは、まったく異なり、とても甘えん坊の犬だった。

今も、麻美に撫でられて、デッキでひっくり返って、お腹を出して、麻美にすっかり甘えてしまっている。

シングルハンダーのヨットマンは、人間のクルーの代わりに、愛犬や愛猫と一緒に、ヨットに乗っている人は、けっこう多かった。

「明日は、どうするの?」

「いや、特に船を出す予定はないので、陸路で大島を観光して周ろうかと思っています。海王さんは?」

「岡田に移動して、月曜に横浜マリーナに戻ろうかと思っています」

「岡田に?岡田って、入港できるんですか?」

隆は、大久保さんに質問した。

岡田というのは、大島の北側にある町のことだ。

波浮は、大島の最南端に位置しているから、ちょうど波浮とは、真逆の場所に位置している。

横浜から波浮まで、ヨットで来ようと思うと、けっこう距離があるが、岡田は、大島の北側で、大島の港の中では、一番、東京湾よりに位置しているので、横浜に戻るにも、波浮から戻るよりは、近くて便利だった。

だが、ヨットやボートの入港は、禁止されていて、停泊できないというので、隆たちは、いつも波浮に来ているのだった。

「最近、岡田港も、きれいになって、ヨットやボートのことも歓迎してくれるようになったんだよ」

大久保さんは、隆やマリオネットの中野さんに答えた。

「そしたら、横浜に戻るのも楽だし、俺らも、明日は岡田に行こうかな」

海王の大久保さんからの情報で、ラッコやマリオネットの3艇で、明日は岡田港に入港することになった。

岡田港

次の日の朝、隆たちは出航の準備に忙しくしていた。

今日は、波浮から岡田に、大島を半周して到着する予定だ。

「朝ごはんは、どうする?」

麻美が、船内からデッキで作業している隆に、声をかけた。

「出航してから、海の上で食べようか」

麻美とルリ子は、船内で食事の準備を担当していた。

隆と雪、洋子、佳代で外の出航を担当していた。

一番背は低いのだが、一番身軽な佳代が、岸壁に飛び移って舫いを外してくる。

洋子は、パイロットハウスの入り口に立って、舵を握っている隆と連携して、アンカーを上げる作業を担当していた。

雪は、右舷側のデッキに立ち、隣りに舫っている海王とぶつからないように、船を押さえている。

左舷側に舫っているマリオネットと接触しないように、気をつけているのは洋子だ。洋子は、パイロットハウスでアンカーを上げる作業と兼任していた。

「よし、離岸完了!」

ラッコが無事、岸壁を離れて、今度はマリオネットが岸壁を離れる。

最後に、岸壁を離れたのは、海王だった。

海王の乗員は、大久保さんただ一人なので、海王の船尾にちょい付けしたラッコの船首から飛び移った佳代が、舫いを外したり、アンカーを上げるのを手伝っていた。

「佳代ちゃんじゃなくて、雪ちゃんか隆が手伝いに行けばよかったのに」

麻美が、海王で作業している佳代の姿を見ながら、言った。

隆も、麻美に言われて、確かにそうだったと思っていた。

海王のアンカーは、ラッコのアンカーみたいに、パイロットハウスに付いているボタンを押すだけでは上がらなかった。

手動でアンカーロープを引っ張り上げて、海の底に沈んでいるアンカーを引き上げなければならなかったのだ。背の低い佳代には、重労働のように思えたのだった。

「意外に、佳代って力あるんじゃないのか」

隆は、麻美に言った。

佳代は、けっこう頑張ってアンカーロープを引いていたのだった。

「力あるんじゃなくて、佳代ちゃんってとても頑張り屋さんなのよ」

麻美が答えた。

「私が行けば良かったね」

雪が、麻美に言った。

海王のアンカーが上がって、無事離岸できた。離岸した海王に、ラッコが再度ちょい付けして、佳代は再びラッコに戻って来た。

「岡田まで海王に乗っていってもいいぞ」

隆が、戻って来た佳代に言うと、佳代は困った顔をしていた。

「おじさん、一人の船で行くよりも、そっちのほうが良いよな」

大久保さんが、そんな佳代の気持ちを察して豪快に笑っていた。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。