自然の中の温泉

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第166回

斎藤智

麻美は、今日これから向かっている温泉が楽しみだった。

昨日、入った温泉の帰りに、たまたま麻美が見つけた温泉だった。

緑豊かな中にある温泉でゲルマニウム温泉とかで、体がほかほかしてきて気持ち良いのだそうだ。

「ここ、入浴料が一人2000円もするよ」

温泉の建物に先に入った隆が、建物から出てきて麻美に伝えた。

隆は、もっと安いところを探して、そこで入浴しようというのだった。

「そうね…」

麻美も、入浴料が高いのなら仕方ないかと思っていた。

「なんか、麻美ちゃん、あきらめきれそうもないよ」

ちょっと残念そうな麻美の表情を見て、洋子が隆に言った。

「え、そんなことないわよ」

麻美は、元気そうに言ってみせた。

「ほかのところに行こう」

洋子は、安い温泉に向かおうとする隆の袖を引っ張った。

洋子に袖を引っ張られて、隆にもやっと残念そうな麻美の気持ちがわかった。

「今日は、ちょっと贅沢しようか」

隆は、そう言うと、一人2000円の入浴料がかかるその温泉に入った。

ほかの皆も、隆に続いて中に入った。

「すごい!」

さすが、2000円かかるだけはあって、中は和風スタイルでリッチな雰囲気だった。

「隆、贅沢してごめんね」

麻美は、隆の側に行くと、小声で隆に言った。

「え、大丈夫だよ。そんなに贅沢でもないよ」

隆は、麻美に答えた。

「それじゃ、また後で」

隆は、マリオネットの男性クルーたちと一緒に男湯に消えた。

麻美たちは、奥の女湯のほうに入った。

「すごい。竹のカゴだよ!」

ルリ子が言った。

脱衣所の中にある脱いだ服を入れておくカゴがグリーンの竹製で高級そうなのだった。

麻美は、ひとつのカゴを確保すると、その中に自分の脱いだ服を入れた。

女湯の中は、けっこう人で混んでいた。

麻美たちは、ほかの皆の中ではぐれないように、なるだけ一緒にくっついて浴室に入った。

「ねえ、あそこにいる女性ってなんか見たことある気がするんだけど…」

麻美が、シャワーの前で体を洗っていると、隣りで体を洗っていた洋子が話しかけてきた。

「え、誰?」

ちょうど、シャワーでシャンプーの付いた髪を洗っていた麻美は、自分の濡れた髪越しに薄目で、洋子に言われたほうを見た。

麻美は、どこかで、横浜マリーナの施設で会ったことがある女性のような気がしていた。

でも、誰だったか思い出せないでいた。

あっきーガール

麻美は、髪に付いたシャンプーを洗い終わると、手で自分の髪を後ろに束ねた。

「麻美ちゃんも、髪のびたね」

洋子は、自分の胸の辺りまでのびた長い髪を洗いながら言った。

「そうなのよ。最近、忙しくて美容院に行けてなくて」

麻美は答えた。

「東京に戻ったら、時間を見つけて切りに行かなきゃ」

麻美は、いつもは髪をだいたい肩にぎりぎり着かないぐらいのところまで伸ばしていた。それが今の麻美の髪は、肩を少し越えた辺りまで伸びてしまっていた。

「美容院に行って、切ってもらってこなきゃ」

「ええ、どうして?麻美ちゃん、そのぐらい長いほうが可愛いよ」

「もう、可愛いなんて言ってもらえる年齢でもないし」

「そんなことないよ」

麻美と洋子は、おしゃべりしながら湯船の中に入った。

湯船の中には、さっき髪を洗っていたときに、どこかで出会ったことあるかもと思っていた女性が先に入っていた。

「あ!」

麻美は、思い出したように叫んだ。

「どうしたの?」

洋子は、突然声を出した麻美に驚いていた。

「ねぇ、あけみちゃんでしょう?」

麻美は、目の前にいた女性に声をかけた。

その女性は、麻美に声をかけられて振り向いた。

「あ、麻美ちゃん!」

その女性のほうは、麻美のことをしっかり覚えていたようだ。

「どうしたの?お父さんとかと家族旅行?」

麻美は、あけみに聞いた。

あけみは、高校生だった。

あけみの父は、32フィートのヨットを所有しており、麻美たちと同じ横浜マリーナにそのヨットを保管していた。

「うん。家族旅行、といってもお母さんと妹は家でお留守番。私とお父さんだけでヨットで来ているの」

あけみは、麻美に答えた。

「そうだ!そうだよね。あけみちゃんだったよね。名前、すっかり忘れていた」

洋子も思い出して、あけみに声をかけた。

「ええ、洋子お姉ちゃん、私のこと忘れていたの?ひどい…」

あけみは、洋子に甘えながら言った。

「実は、私も少し忘れていたの」

麻美は、正直にあけみに告白した。

「麻美ちゃんたちも、もしかしてヨットで熱海に来たの?」

「そうよ」

「それじゃ、隆お兄ちゃんも一緒?」

「うん。一昨日の夜に横浜マリーナから出航してきたのよ」

「そうなんだ。うちは、今朝早くに横浜マリーナから出航してきたの」

麻美は、あけみからあけみたちの乗って来たヨットが停まっている熱海港の場所を聞いてびっくりした。

「あれ、そこだったら、うちのヨットが停まっている場所から二艇分ぐらいしか離れていないじゃない」

「なんで気付かなかったんだろう」

今日のヨットレースに参加するために多くのヨットが熱海港に集まって来ていたので、こんな近くに停まっていたというのに、お互いにぜんぜん気づかなかったみたいなのだった。

あけみのお父さんのヨットは、ドイツ製のババリア造船所が建造したクルージング艇だった。

船名は、あっきーガールといった。

あけみが小さい頃に、近所の子供やお母さんに、あっきー、あっきーと呼ばれていたので、そのあっきーに、女の子のガールを付けて、あっきーガールと父に命名されてしまったそうだ。

「和美ガールにすればいいじゃん」

あけみは、父に自分の名前をヨットに命名されてしまったとき、妹の和美の名前にすればよかったのにとすごく照れていた。

今回の連休も、お母さんとデパートに行くグループとお父さんとヨットに行くグループに別れるのに、妹にヨットの名前が、あっきーガールなんだからお姉ちゃんがお父さんと行って来いと言われて、あけみが父のヨットにつきあっていたのだった。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。