海底温泉

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第53回

斎藤智

夕食までに、少し時間があるので温泉に行くことになった。

「温泉に行くから、水着に着替えて」

隆に言われたとき、洋子は不思議に思っていた。

温泉に行くのはわかるが、どうして温泉に行くのに水着に着替えるのだろうか。もしかして混浴なので、水着を着て入る温泉なのだろうかと思いながら、水着に着替えていた。

ヨットから温泉場までの道を、さすがに水着だけで歩くわけにはいかないので、水着に着替え終わると、その上にTシャツやジーンズ、短パンを着てから出かける。

「さあ、行こう」

隆は、船から岸壁に飛び降りた。

ほかのラッコのクルーも岸壁に降りた。隆が先に立って、温泉までの道案内を兼ねて歩いて行く。

皆も、隆の後ろについて歩いて行く。

港から島の内側へは一本の道がずっと 続いている。皆は、当然その一本道を歩いて行くのだと思っていたが、隆は、その一本道には行かずに、その脇にある細い道に入って行った。

「こんな細い道を行くの」

皆は、不思議そうに、隆の後ろについて行く。

ずっと茂みの中を歩いて行くと、茂みを抜けて、ぱっと広がった場所に出た。よく見れば、そこはラッコが泊まっている同じ式根島港内だった。ラッコ等のヨット、ボートが泊まっているのは、入り口付近の岸壁だったが、ちょうどその向かい側に当たる岩場だった。

「温泉に着いたよ」

岩場の一部に、まるで温泉のように、岩で丸く囲まれた部分があった。隆の話だと、そこが温泉だという。隆に言われて、ルリ子が岩場にしゃがんで海水に手を入れてみる。

「暖かい!」

海に手を入れたルリ子が叫んだ。

海水が暖まっていたのだ。式根島の周りの海面には、海底火山がいっぱいあり、島のところどころに温泉が噴き出している個所があった。

「入ろう!」

皆は、着ていたTシャツを脱いで、水着になって海に飛び込んだ。

海の水が暖かいので、海で泳いでいるというよりは、確かに温泉に浸かっているような感覚を持てた。

「確かに、暖かくて気持ちいいけど、水着で入るっていうのが、体も洗えないし、お風呂に入浴している気にはなれないわね」

麻美が、海の温泉に浸かりながらつぶやいた。

「もう夕方で暗くなってきて、周りも見えなくなってきているし、別に水着脱いで入ってもいいよ」

「いいえ、水着で大丈夫。別に脱いで見られるのはかまわないんだけど、おばさんの裸なんて、見せられる側が迷惑でしょうし」

麻美は隆に苦笑してみせた。

豪華なディナー

港の脇にあった温泉?から戻ってくると、途中でマリオネットのメンバーと出会った。

ラッコのメンバーたちは、温泉で体も暖まったことだし、これから船に戻って、夕食を作って食べようと歩いていたところだった。

マリオネットのメンバーたちは、港を出て少し行ったところにある食堂に、夕食を食べに行こうと、逆に船から出かけるところだった。

「ちょっと、夕食を食べてきます」

「行ってらしゃい」

中野さんに挨拶されて、ラッコのメンバーたちも会釈をして、マリオネットのメンバーたちとすれ違った。

「今夜の夕食は、何を作るの?」

「そうね、お肉が悪くなってしまう前にと思って、しゃぶしゃぶにしようかと思っているんだけど」

ルリ子に聞かれて、麻美は、今夜の予定していた献立を告げた。

「しゃぶしゃぶ、すごい!豪華!」

40とか、50フィートもある大きなパワーボートなんかだと、大きな馬力のあるエンジンに、船内には、陸上の家庭と変わらないような巨大な冷蔵庫が付いていたりして、普通に、家にいるときと変わらぬ生活を過ごせたりするのだが、隆たちの乗っている若干33フィートのヨットでは、スペースはもちろん、電気や水などにも限りがあるので、陸上での生活と全く変わらない生活を過ごすというわけにはいかなかった。

「クルージングの前半は、買ってきた新鮮な食材なども豊富にあるので、けっこう豪華な食事を楽しめるけど、後半になってくると、だんだん生ものが無くなってきて、缶詰やインスタントなどで、料理が侘びしくなってきてしまうんだよ」

隆が、皆に説明した。

「でも、私はインスタントのカップ麺とか好きだけどね」

「そうだよね、美味しいよね」

大きなエンジンに、大きな発電機、造水機などで、陸上と全く変わらない生活が送れるパワーボートも羨ましいとは思うが、限りある生活なので、うまく献立などを工夫して楽しむヨットの生活も、それはそれでヨットの醍醐味で、好きなヨットマンが多かった。

「さあ、お料理をしましょう」

船に戻ると、麻美が中心になって、皆はギャレーで野菜を切ったり、お肉を盛りつけたりと、夕食の準備を始めていた。

三宅島へ

「ただいま!」

隆たちラッコのメンバーが、キャビンのサロンで夕食を食べていると、マリオネットのメンバーの皆が、食事から戻って来た。

「お帰りなさい。お食事はどうでしたか」

「うん、まあまあだったね。一昨年、ほかの船で式根に来たときに食べた食堂が美味しかったら、そこにもう一度、行こうと思っていたのだけど、無くなってしまっていて、それで海水浴場の手前のところに一軒だけ小さな食堂があったので、そこで、うどんを食べてきた」

麻美に聞かれて、中野さんは答えた。

「鍋焼きうどんっていうのを頼んだんですけど、量がすごく少なかったんですよ」

マリオネットの食べざかりの若い男性クルーたちには、どうやら、そこの食堂の料理の量は、少なかったようだ。

「あらら、そうなの。うちのクルー、女の子ばかりだから、まだ食事余ってしまっているから、よかったら食べていって」

麻美は、急いでパイロットハウス側のサロンのテーブルにも、もう一個、カセットコンロを出すと、その上にお鍋を乗せて、しゃぶしゃぶの準備をした。

夜中に、横浜マリーナを出航して、ほとんど眠らずに夜じゅう走って、伊豆七島、式根島に到着しているので、今夜は、全員さすがに眠たかった。食事が終わって、後片付けをすると早々に、就寝となった。

「おはよう!」

昨夜は、早寝でぐっすり眠ったので、目覚めも良い。

麻美が一番先に起きて、皆の分の朝ごはんを作っていた。その調理の音で、ギャレーすぐ脇のベッドで寝ていた洋子、ルリ子が起きてきて、船首で寝ていた雪が続いて起きてくる。

一番寝覚めの悪いのは、隆と佳代だった。

「はいはい、いつまで寝ているんですか」

二人が、まだベッドの上で眠い目をこすりながら、ボーっとしていると、エプロンをしている麻美がやって来て、二人を起こして着替えさせた。

「ちょっと、佳代ちゃん。中身、パジャマのままじゃない」

佳代が寝ぼけて着替えていて、ジーンズとカーディガンは、ちゃんと着替えているのに、カーディガンの下がパジャマのままだったりするのを発見して、麻美が慌てて、佳代を連れて、オーナーズルームに戻って、正しく着替えさせていた。

「麻美さんって、佳代ちゃんのお母さんみたい」

ルリ子が、それを見て、笑っていた。

「さあ、今日こそは三宅島に到着しよう」

朝ごはんを食べ終わって、出航準備を終えると、隆は、ステアリングを握りながら、皆に言った。

岸壁に舫っていたロープを外すと、ラッコとマリオネットは、式根島港を出港した。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。