この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第63回
斎藤智
最後の日
その日の朝の出航は、早かった。
夕方までには、横浜マリーナに帰還したかったので、到着予定時刻から逆算すると、どうしても、朝早く、早朝に出航しなければならなかった。
「おはよう」
昨夜は、クルージング最後の夜ということで、遅くまで起きていたので、まだ皆、眠そうだった。
クルージング中、いつも早起きして、皆の朝ごはんを作っていた麻美でさえも、大きな欠伸をしながら、眠そうな顔で、朝食を作っていた。
「遅くなるから、出航しよう!」
隆は、朝ごはんを作っている麻美と佳代、ルリ子を船内に残して、洋子や雪とデッキ上に出ると、アンカーを上げて、船を出航させた。
マリオネットも、ラッコの後について、波浮港を出港してきた。
「朝ごはん、できたよ」
船内から顔を出した麻美が、デッキにいる皆に言った。
「ちょっと待ってよ。これからセイルを上げるところだから」
隆は、麻美に答えた。
洋子と雪は、マストの根元に立って、ちょうどメインセイルとミズンセイルを上げるところだった。
「佳代ちゃん、手伝ってあげて」
佳代は、麻美に言われて、船内からデッキに出ると、雪や洋子の横に行って、セイルを上げる手伝いをする。
ルリ子も、外に出てきて、一緒にセイルを上げる。
エプロンをして、食事を手に持っている麻美だけは、そのまま、船内に残って、パイロットハウス内のテーブルの上に、皆の食事を並べていた。
「セイル上げ終わったよ」
皆が、朝ごはんを食べるために、船内に戻って来た。
舵を取っていた隆も、皆と一緒に船内に入ってきた。
食事中は、表のコクピットにあるステアリングではなく、船内のパイロットハウス内に付いているステアリングで、舵を取ろうというのだ。
「はい。皆、席について朝ごはんよ」
麻美は、エプロンを外しながら、皆に言った。
「麻美さん、皆のお母さんみたい」
麻美に言われて、席に着きながら、ルリ子が嬉しそうに言った。
「麻美さんがお母さんだったら、隆さんはお父さんだね」
雪が言った。
「私たちは?子ども?」
「だね!」
ルリ子は、嬉しそうに答えていた。
「一番上の長女は雪さん」
「末っ子は佳代ちゃんだね」
麻美が、佳代の横の席に腰掛けながら答えた。
「いただきます!」
ラッコの朝ごはんが、始まった。
筆島
「あれ、なあに?」
窓から外を眺めていた洋子が、大島の脇にある小島を指さして言った。
「筆島だよ」
それは、島というよりも海から突き出した岩だった。
その岩は、海から細長く突き出していて、先がとんがっているため、まるで習字の筆のような形をしていた。
ただの岩の塊なので、人が住めるような島ではなかったが、ちゃんと「筆島」という名前が付けられていた。
筆島は、波浮港を出港して、東京湾を目指すヨットマンにとっては、格好の目印になっていた。
筆島が離れていくと同時に、大島も、だんだんと小さくなっていた。
「大島が離れていくね」
ずっと、大島の真横を走り続けていたのに、その大島を越えて、いつの間にか、横から後ろに島を見るようになっていた。
それに代わって、ずっと前方に、かすみがかって見えていた関東の陸地が、どんどんと大きくはっきり見えてくるようになっていた。
楽しかったクルージングも終わりで、いよいよ伊豆七島ともお別れだ。ラッコの乗員たちは、少しセンチメンタルに島を振り返っていた。
「さよなら、大島」
隆が、洋子と少し寂しそうに、後ろに見えている大島に手を振ってみせた。
「さよなら、大島。来月にまた来るからね」
「もう、来月に戻って来ること考えているんだ」
ルリ子が言うと、皆は、ルリ子の言葉に思わず笑ってしまった。
今まで、ベタッとして凪ぎいていた海が、少し波立ち、風が吹いてきた。ラッコのセイルにも、強い風が当たり、船は、少しスピードアップして走り出していた。
「お、吹いてきた!」
「このまま、横浜まで風が吹いてくれていれば、早くに横浜に戻れるかもね」
風が当たるので、今までTシャツに短パンだった皆は、カーディガンを着たり、パンツを着たりしていた。
少しドレスアップしていた。
のだろうか。どうしても、クルージングが長くなると、誰にも会わないし、毎日Tシャツ、短パンで、女性は化粧っ気も少なくなって、だらしなくなってきてしまう。
城ヶ島
三浦半島の先、城ヶ島の近くまでやって来た。
ここら辺まで来ると、周りにほかのヨットの姿も増えてくる。
特に知り合いのヨットというわけではないが、すれ違うときには思わず手を振ってしまう。こちらが気づかないときでも、向こうから手を振ってくれて、あわてて手を振り返していた。
「駅や街中ですれ違っても、誰も手なんて振らないのに、ヨットだと皆、手を振ってくれるね」
「山で、登山をしているときも、歩いてすれ違うときに皆、挨拶してくれるじゃない。それと同じじゃないのかな」
浦賀
ヨットは、東京湾の中に戻って来て、浦賀の辺りを走っていた。
浦賀には、大きなマリーナがあって、そこのマリーナのヨットたちがブイを打って、レースをしていた。
「じゃまにならないように、脇によけて走ってあげよう」
ラッコとマリオネットは、ヨットレースのじゃまにならないように、ヨットを避けながら通り過ぎた。
「あの白いのが、一番を走っているのかな」
「あっちの青いのが、けっこう上手に風をつかんで走っているよ」
普段、ヨットレースなどまったくやらないラッコのメンバーだったが、ヨットレースの脇を通り過ぎるときは、レース艇の観戦しながら、レース評を勝手にしていた。
観音崎
浦賀の先にある観音崎を越えると、もうそこは、普段の日曜日にも、ラッコが毎週走っている海面だ。ここまで戻って来ると、ああ、横浜に戻って来たなって感じだった。
「あと、もう少し。頑張ろう」
それから、しばらく走っていくと、
横浜・横浜マリーナ
なつかしい横浜マリーナの三角のクラブハウスの屋根が見えてきた。
「ただいま!戻って来たね」
ラッコとマリオネットは、一週間ぶりに横浜マリーナに戻って来た。
横浜マリーナのスタッフが、笑顔で皆のことを出迎えてくれた。
大きなクレーンが降りてきて、ラッコの船体をすくい上げて、陸上に持ち上げた。そして、そのままラッコは、自艇の艇庫内に収まった。
続いて、マリオネットの船体も、自分の艇庫の中に収まった。
長く楽しかった夏のクルージングも終わった。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。