あっという間に最下位

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第164回

斎藤智

隆はもちろん、中野さんはレース順位がトップでご機嫌だった。

「いいね。今、一番だよ」

中野さんは話していた。

だが、一位を走っていることに、中野さんよりも、もっとご機嫌だったのが意外にも雪だった。

メイン、ジブのセイルトリムをしながら、ヨット全体を見渡して、クルーの座っている位置まで指示して、なんとか一位の順位を保とうとしていた。

「佳代ちゃんは軽いから、コクピットに入ってメインセイルをトリムして。香織ちゃんは、ルリちゃんと一緒に風上側のサイドデッキに出てヒールを抑えて!」

雪は、乗組員の細かなシートポジションまで指示している。

「もう少し、前に移動しようか。うん、そこらへん。あともう半歩前…」

けっこう細かに、皆の座る位置まで指示して、ヨットのバランスをとっていたのに、熱海港を出て、一艇、また一艇とエンジンを止めて、機走からセイリングに入ってしまうと、マリオネットのスピードは徐々に落ちていき、代わりにレース艇、レース仕様の装備をしたヨットのスピードが上がっていき、一番を走っていたマリオネットは、ほかのヨットに追いつかれてきた。

「追いつかれてしまうよ」

雪は、必死でセイルのトリムをしながら、ステアリングの隆のほうに振り向きながら聞いた。

「仕方ないよ。セイリングになったら、モーターセーラーのマリオネットじゃ、レース仕様のヨットのスピードにはかなわないよ」

隆は残念そうに雪に返事した。

マリオネットは、次々と後続のヨットに追い抜かれていく。

「黙って追い抜かれるしかないの?」

雪はおろおろしていた。

「大丈夫だよ。ゴールの寸前で、またエンジンによる機走レースがあるだろう」

隆は慌てずに言った。

「そのときが大きなエンジンのマリオネットのチャンスだから。それまでは、なんとか差が開かないように、レース艇たちについていくことだけ集中しておこう」

隆は、雪に作戦を説明した。

とうとうマリオネットは、ほかのヨットの一番最後、最下位になってしまった。

それでも、雪はあきらめずに必死でセイルトリムを続けて、ほかのヨットに追いていかれないように頑張っていた。

このままの差で、最下位でついていけば、最後の追い上げで追い抜けるのだろうか、それはわからなかった。

「ね、ね、美幸ちゃん。昨日、あなたたちが引っ掛かっていたところだよ」

マリオネットは、初島を周回していた。

麻美は、昨日、横浜マリーナからやって来たときに、マリオネットがアンカーを上げられなかったところに来た時に、美幸に言った。

「本当だ!昨日、皆に助けてもらったところだね」

美幸は、笑顔で麻美に返事した。

「よかったね。昨日、アンカーをもしずっと上げられなかったら、美幸ちゃん、まだあそこにいたんだよ」

ルリ子が笑った。

「ね、ルリちゃんたちが助けに来てくれなかったら、私まだあそこにいたんだね…」

「でも、あそこらへん、お魚がいっぱい釣れそうだから、ずっと食事の心配なく暮らせるかもよ」

麻美と美幸、ルリ子は、風上側のサイドデッキに腰かけてヒールを抑えながら、笑顔で冗談など言いながら、レースとは全く関係のない話で盛り上がっていた。

麻美は、隆にも冗談に加わってもらおうと、コクピットのほうを振り向いた。

コクピットの隆も、雪も、中野さん、洋子までもが、冗談も言えないぐらいに必死な顔でセイルトリムに集中していた。

なんだかコクピットでセイルトリムしている連中は、こわばった顔をして必死にセイルトリムしているので、麻美たちのおしゃべりも、いつの間にか少し小声になっていた。

逆転優勝!

マリオネットは、熱海港を出て、目の前の初島を一周するとまた熱海港に戻ってきた。

「よし、まもなく港内に入るから準備しておいて、同時にジブファーラーを閉じよう。そしたらエンジンをかけて猛スピードでゴールだ!」

隆がコクピットのクルーたちに言った。

ジブのセイルトリムをしている雪を抜いて、洋子やコクピットにいたクルーは船の前方に行くと、いつでもジブを仕舞えるように待機していた。

洋子が待機に向かったので、それを手伝おうと佳代、ルリ子に香織とかも立ち上がった。

「じゃまになるといけないから、私たちはここに座っていましょう」

隣りに座っていた麻美が言ったので、香織も、ルリ子も、立ち上がりかけたのをやめて、もう一度サイドデッキに座りなおした。

それに釣られて、佳代も麻美の横に腰かけた。

「佳代ちゃんは、洋子ちゃんのところに行って、手伝ってあげたら…」

麻美に言われて、ラッコのクルーで一番機敏な佳代は、船首の洋子のところに手伝いに行った。

「私たちは、あんなに機敏に動けないものね」

「そうだよ。じっとしていたほうが、レースにも良いだろうし…」

麻美やルリ子は、コクピットのサイドデッキに座ったまま、おしゃべりを続けていた。

マリオネットは、熱海港の入り口の防波堤を越えた。

「すごい観客の数!」

防波堤には、ヨットレースを観戦しているお客さんがたくさんいた。

お客さんたちの中には、レースの参加艇たちに向かって、手を振っている人もたくさんいた。

麻美やルリ子は、その人たちに自分たちも手を振り返した。

「手を振っているの私たちだけね」

麻美は気付いた。

ほかのヨットのレース参加者たちは皆、レースに夢中で、観客に手なんか振っていなかった。

マリオネットの船でも、手を振っているのは、サイドデッキに腰かけてのんびりしている麻美たちだけだった。

ほかの乗員は、ジブを仕舞うのに必死だった。

「よし、走れ!走れ!」

中野さんは、ステアリングを握っている隆の後ろの席から声を上げている。

マリオネットは、エンジン全速力でゴールを目指していた。

やはり、大型のエンジンを積んでいるマリオネットは、機走になると速かった。最下位から次々と上位を走っているヨットを抜き始めた。

「もう少し、エンジンの回転数上げる?」

エンジンのギアを担当していた洋子が隆に聞いた。

「いや、さすがに、これ以上回転数を上げるとエンジンがやばいからやめておこう」

隆は言った。

マリオネットの前を走っているヨットの数は、2艇だけになった。

「さすがに、ちょっと追いつけそうもないかな」

隆は、小声でつぶやいていた。

あと2艇なのだが、ゴール前には、さすがに前の2艇には追いつけそうで追いつけなさそうだった。

中野さんは、体を前に移動するとエンジンのギアを握っている洋子の手の上からギアを握って、ギアを前に倒した。

洋子が、チラッと後ろの中野さんのほうを振り返った。

「大丈夫だから、多少ならエンジン焼きついたって構わないから。目いっぱい回転数を上げてしまえ」

振り向いた洋子に中野さんは叫んでいた。

エンジンの回転が上がったことで、マリオネットのスピードが上がった。2番目を走っていたヨットを追い抜き、トップを走っていたレース艇までも見事にゴールの寸前で追い抜いていた。

「ちょっと、ヤバくないか」

中野さんが目いっぱいエンジンのギアを吹かしこんだので、舵を握っている隆は不安そうにつぶやいてしまっていた。

ちょうどマリオネットが追い抜いているときに、レース本部艇からゴールを知らせるラッパが鳴った。

「どっちの船がゴールしたんだ?」

隆は、鳴ったラッパの音がマリオネットか向こうのレース艇なのか疑問に思っていた。

「マリオネット優勝だって!」

サイドデッキにいた麻美が、隆に答えた。

「なんでわかるの?」

「だって、本部艇のおじさんが私たちに教えてくれたものね」

「うん。麻美ちゃんのほう見て、ニコニコ手を振って教えてくれていたよね!」

麻美とルリ子が同時に答えた。

観戦客やあっちこっちに手を振って愛想を振りまいていた麻美だからこそ、本部艇のおじさんから笑顔で親切に教えてもらえたようだった。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。