この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第172回
斎藤智
今年も横浜マリーナのクラブレースのシリーズ戦が始まった。
横浜マリーナでは、マリーナにヨットを保管しているヨット同士で毎年、月に一度か二度のペースでヨットレースを開催している。
各レースでの順位を決めて、その順位を総合して、その年の横浜マリーナヨットレースの総合優勝艇を決めている。
毎年、優勝艇は、その年の終わりに開催されるクリスマスパーティで表彰される。
ヨットとしてはあまり帆走性能が良くないラッコは、去年はいつもヨットレース自体には参加せずに、本部艇としてスタート、ゴールの笛を鳴らして、どの艇が一位かなど順位を計測したり、ヨットレースの裏方として活躍していた。
「レースにエントリーしてきたよ」
横浜マリーナのクラブハウスでヨットレースの艇長会議に参加していた隆は、ヨットに戻ってくると、今日のヨットレースのコースが書かれている用紙を雪に渡した。
この間の熱海クルージングで、初めてヨットレースに参戦した雪が、ヨットレースの面白さにはまってしまったため、ラッコでも今日のヨットレースに参加することになったのだった。
「スピンの準備はできているよ」
雪は、隆に報告した。
いつもならば、メインセイルとジブセイルのみ艤装して、出航しているラッコだったが、今日はヨットレースなので、メインセイル、ジブセイルに加えて、スピンネーカーのセイルまで艤装して準備していた。
これでヨットレースの戦闘態勢だけはしっかり整っていた。
「おお!レースに出場するの!?」
いつものんびりだらだらクルージングしているラッコの面々は、横浜マリーナ内でヨットに乗りに集まってきたヨットマンたちに、珍しくスピンまで艤装して張り切っている姿を見られてハッパをかけられていた。
「今日のお昼は、おにぎりを握ってきたのよ」
麻美は、バスケットの中のおにぎりをルリ子に見せながら言った。
「ヨットレースに出るのだから、船の上でお料理はできないと思って」
「あ、卵焼きもあるんだ!」
洋子も、麻美の持っているバスケットの中を覗き込んで言った。
「私、麻美ちゃんの卵焼きおいしいから大好き!」
洋子は答えた。
「そうでしょう。前に洋子ちゃんが卵焼き好きって言っていたから、いっぱい作ってきたの」
麻美は嬉しそうににっこりしながら言った。
「香織ちゃん、かわいい!」
麻美は、香織がつばの広い帽子をかぶっているのを見て叫んだ。
「今日は、レースでずっと暑いデッキの上で作業すると思ったから」
香織は、自分の体をくるっと回転させて帽子をかぶっている全身を麻美に見せながら言った。
「セイルトリムとかするから、手にはセイリンググローブ付けとかなきゃな」
隆は、自分の手にセイリング用のグローブを付けながら、雪に言った。
「私ももう付けている」
雪は、既に付けている自分のセイリンググローブを隆に見せて言った。
「佳代ちゃんも日焼けすると、年とったときにシミになったりするから、今からちゃんと日焼け防止しておきなね」
麻美は、佳代にもつばの割と広い帽子をかぶせて、日焼け防止用のクリームを顔に塗ってあげながら言った。
ほかのラッコの面々が、初のヨットレース参加で緊張、ヨットのことに夢中になっているというのに、麻美だけはいつも通りのペースだった。
佳代は、赤いリボンの付いたつばの広い帽子を麻美にかぶせられていた。風で飛ばないように、しっかり首のところにゴム紐まで付けさせられていた。
隆と雪は、セイリングの艤装が終わったデッキ上を再度確認して回っていた。
今日のラッコの艇上は、レース熱に燃えているのと、いつものようにのんびり日焼け防止の帽子などファッション談義しているのと半々だった。
横浜マリーナのスタッフたちは、忙しそうに今日のレースに参加するヨットたちをクレーンで海上に下ろしていた。
麻美、怒られる
レースが開催される海上には、レースに参加するたくさんのヨットが集まってきていた。
並川さんというおじさんのアメリカ製シーレイボートも、そこへやって来た。
並川さんは、ヨットが走っている真ん中あたりにやって来ると、そこにアンカーを落として停泊した。
「旗を付けてから、そのポールを立てましょう」
同乗していた横浜マリーナのスタッフが、シーレイボートの船尾に「横浜マリーナ」の旗の付いたポールを立てた。
その後、首から下げていた笛をお試しでピーと鳴らしてみせた。
「レースの参加者の皆さん、聞こえますか!?」
スタッフは、海上を走っているヨットたちに声をかけた。
去年までは、ラッコがレースの本部艇をやっていたが、今年、今日は、ラッコもレースに参加するので、代わりに並川さんのボートが本部艇を務めることになったのだった。
「頑張ってね」
ラッコが、本部艇のすぐ側を通り抜けたとき、本部艇の艇上から並川さんが声をかけてくれていた。
隆は、ラッコのステアリングを握っていた。
「それじゃ、一番風上から出ようか…」
隆は、雪に言った。
それを聞いて、雪は満足そうだった。
はじめ、隆は、レース上のコースを決めるときに、自分の船はクルージングでのんびり走るのが一番得意なヨットで、あまり速くないヨットだからと、周りのレース艇たちに迷惑をかけないように、スタートは一番後ろのほうで、のんびりスタートしていこうと言っていた。
それを聞いて、雪はせっかくレースに参加するのに、と少し不満そうだったのだ。
「後から追い抜かれるかもしれないけど、とりあえずスタート時は頑張って一番良いポジションからスタートしようか」
雪の態度をみて、隆が言いなおしたので、雪は嬉しそうな笑顔になっていた。
「去年までは、ルリちゃんがあれをやっていたのにね」
麻美がルリ子とサイドデッキに腰かけながら言った。
「なんか、私が笛を吹きたくなちゃうよ」
「ルリちゃん、スタートとゴールって本部艇でやるの似合っていたものね」
麻美は、ルリ子の頭を撫でた。
そんなわけで、並川さんの本部艇から鳴ったスタートの合図と同時に、ラッコは、ほかのレース艇たちに混じって、一番先頭でスタートしていた。
今日は、比較的強い風が吹いていた。
重たいヨットのラッコでも、強風の力で順調なセイリングを続けていた。
「少しヒールをつぶそうか」
隆が雪につぶやいた。
「皆、ヒールがきつくなってきたから、風上に行って船のヒールを押さえよう!」
雪は、ほかの皆に大声で言った。
その声で、洋子や香織などクルーたちは、風上側のサイドデッキに移った。
小柄の佳代までもが、しっかり風上側に上ってヒールを押さえていた。
「麻美、何をやっているんだよ!」
隆が叫んだ。
皆が一斉に風上側のサイドデッキに移ったので、サイドデッキは人でいっぱいになってしまっていた。
麻美の座る場所が無さそうだったので、麻美はコクピット内でうろうろしていたのだった。
「一番背がデカいおまえが、風上に行かなくてどうするんだよ!」
「え、ああ。ごめんなさい。皆が移動していっぱいだったから、私はここに残っていたの」
「佳代の前が空いているだろう。佳代の前に行けばいいじゃん!」
「あ、あんな前まで行っても良かったんだ?」
麻美は、隆に怒鳴られて、あわてて佳代の前のところに移動していた。
「麻美ちゃん、大丈夫?」
やって来た麻美に、佳代が声をかけた。
「え、大丈夫よ」
「隆さんに怒られちゃったから…」
佳代が心配そうに麻美に言った。
「うん、泣いちゃおうかな」
麻美は、手を自分の眼の上に持っていて泣き真似をしてみせた。それを見て、佳代が麻美の頭を撫でて、いい子、いい子していた。
「どうしたの?」
佳代の後ろ側に座っていた香織が言った。
「麻美ちゃんが、隆さんに怒られて泣いちゃったの」
佳代が、麻美の頭を撫でながら言った。
「そうか…」
香織も、泣き真似している麻美のほうに手を伸ばして、麻美の頭を撫でてあげながら、隆に文句を言った。
「隆さん、麻美ちゃんのこといじめちゃダメ!」
隆は、ラッコの舵を取りながら、頭を掻いていた。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。