一位から一気に最下位へ

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第173回

斎藤智

スタートがたまたま良かったのか、ラッコはスタート直後からレースの先頭を走っていた。

「今、一番を走っているみたいだね」

ルリ子は、サイドデッキから外に向かって足を投げ出して座りながら、周りを見渡して言った。

「ルリちゃんは、さすが去年のレースで順位を付けていただけあって、レースの様子がわかるんだね」

麻美は、ルリ子に感心していた。

「私なんて、周りを見ても、いったいうちのヨットが今、皆の中で何位を走っているのかさっぱりわからないもの」

麻美が言った。

「私も!何位どころか、横浜港のどこを走っているのかもよくわからない」

今年からヨットを始めたばかりの香織が麻美に頷いた。

「さすがに、皆よりも早く一昨年からヨットやっているから、横浜港のどこを走っているかは、私はわかっているつもりではいるけど」

「香織ちゃん、まだ、どこらへんを走っているかもわからないんだ。そうだよね、去年は、私もヨットに乗っていてもどこへ向かっているのかよくわからなかったもの」

「でしょう?特に、ヨットがクルクルと方向転換してしまうと、どっちに向かっているのか、さっぱりわからなくなる」

「そうだよね」

「それじゃ今、香織ちゃんは、このヨットに乗ってどこに連れていかれているかもわからないんだ」

「え、そうね」

「それは大変じゃない!もし、隆がヨットでどこかに誘拐する気だったら…」

「そうなの。誘拐してても、私はどこに向かっているかわからないから、ただヨットに乗っているしかないの」

香織の返事を聞いて、サイドデッキでヒールを押さえていた女性陣は、笑顔で笑っていた。

「はい、そこでおしゃべりしてる人たち。もうそろそろタックをするから準備して」

コクピットから隆が声をかけてきた。

洋子や佳代は、コクピットに入ると、ジブの向きを入れ替えられるように準備していた。

「はーい!何をしたらいい?」

麻美は、隆に聞いた。

「タックだよ!タック!タックできるようにする準備」

コクピットから隆に怒鳴られても、麻美には、タックするための準備っていったい何をしたらいいのかよくわからないで、デッキ上に立ちつくしていた。

「麻美は、邪魔にならないようにそこでじっとしていろ!タックになったら、風上側から風下へ移動するんだぞ」

隆に言われて、麻美はもう一度サイドデッキに腰かけた。

「タック!」

雪のかけ声で、タックが始まった。

ヨットは、船体を方向転換した。

それにあわせて、今まで右に出ていたセイルがいったん船体上空に収まってから、今度は逆側にでていった。

ヨットの方向が変わって風上も逆に変わったので皆は、今までと反対側のサイドデッキに移動していた。

麻美も、皆の移動した風上側に移動しようと立ち上がったが、船は揺れて、大きく傾いたので、うまく移動できずに足がもつれてしまっていた。

「ほら、おばさん!へっぴり腰をしっかり上げて、きちんと歩いて」

そんな麻美に、隆はコクピットから叫んでいた。

麻美は、隆の言葉などほとんど耳に入っていなかった。

今は、必死で大きく傾いているヨットの船体をよじ登るのがせいいっぱいだった。

「ほら!一番最初のブイを、俺らが一番に回ったぞ!」

隆が興奮して叫んだ。

麻美は、後ろを振り返ってみると、今、自分たちが回ったブイを、ほかのヨットたちが回っているところだった。

ブイを回り終えたほかのヨットは皆、カラフルな色のスピンネーカーを上げていた。

「皆、あのブイを回った後はスピンを上げるんだ。でも、まさか、うちのヨットは、スピンは上げないよね」

麻美は思いながら、サイドデッキに腰かけていた。

「よし!早く引け!引け!」

隆の声に、麻美は後ろを見るのをやめて、もう一度前方に向きなおした。

マストのところでは、佳代が必死にロープを引いてスピンネーカーを上げているところだった。 いつの間にか、うちのヨットでもカラフルなスピンネーカーが大きく広がっていた。

隆、不機嫌

レースに参加中の各艇は、それぞれ皆、カラフルなスピンネーカーを上げていた。

「追いつかれるー」

雪は、後ろを振り返りながら、隆に言った。

「ジブをもう少し引いた方がいいのかな?」

雪は、必死でジブをトリムしながら、隆に聞いた。

「それはもう無理だよ」

洋子は、優しく雪に答えた。

「確かに、洋子の言うとおり、あれに抜かれるのはあきらめるしかないよ」

隆も苦笑しながら言った。

暁は、ラッコの艇体の横を余裕で追い抜いていった。

「暁は、船内も軽くしている完全なレース艇なんだから」

「でも、抜かれるのは悔しいな」

「逆に、向こうにしてみたら、ラッコに追いつけなかったら、悲しいだろう。向こうは何十万というお金をセイルにつぎこんでいるのだから」

しかし、ラッコのことを追い抜いて行くのは、暁だけではなかった。

後からやって来たヨットは皆、あれよあれよという間に、ラッコに追いつき追い抜いていった。

やはり、ラッコはフィンランド製の内装が豪華な重たいモーターセーラーだ。

レースのスタートこそ、たまたま良かったので、一番を走って来たが、レースが進むにつれて、ほかのヨットに追いつかれてしまっていたのだ。

追い抜かれていくところを見て、雪は悔しそうだった。

隆も、口にこそ出していないが、悔しそうにしていた。

「今、隆のところに行かないほうがいいね」

麻美は、そんな隆の様子を見て、横にいる香織に小声でつぶやいた。

香織は、麻美が小声で話してきたのを耳元で聞いて、くすくすと笑っていた。

気がつくと、一番を走っていたラッコだったのに、後ろを振り向くと、マリオネットとあと数艇しかいなくなっていた。

「マリオネットには勝とうね」

悔しそうな雪のことを慰めるつもりで、洋子は言った。

「そりゃ、マリオネットには負けないさ」

隆が洋子に言った。

「あのブイを回ったら、スピンを下ろしてジブで走るぞ!」

隆は、前方で忙しそうにスピンをトリムしている佳代に声をかけた。

「はーい!」

佳代は、返事をして、いつでもスピンを下ろしてジブに変えられる準備を整えた。

「何か手伝う?」

香織が、麻美に聞いた。

「手伝えそうだったら、佳代ちゃんのことを手伝ってあげて。私は、動いて邪魔しちゃっても悪いから、ここにいるわ」

麻美は、そのままサイドデッキに腰かけたままでいた。

また下手に動いて、隆に何か文句を言われるのもシャクだった。

香織だけ立ち上がると、佳代ちゃんのお手伝いをしにバウに行った。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。