この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第92回
斎藤智
小柄な佳代は、自分よりも遥かに大きなブイを抱えて運んでいた。
「おいおい、佳代が歩いているというよりも、ブイが歩いているみたいじゃないか」
佳代が横浜マリーナの中をブイを抱えて歩いていると、マリーナの皆に、ブイが歩いているみたいだと笑われてしまっていた。
その後ろからルリ子が別のブイを持って歩いてきた。
「ブイが歩いているみたいだな」
「佳代ちゃん、小さいから、ブイだけしか見えないのよね。でも、可愛いよね」
マリーナの皆が、佳代のことを話しているのを聞いて、ルリ子が答えた。
「小さいけど、意外に力あるんだな」
佳代が、大きなブイを一人で持ち歩いているのを見て、皆は話していた。
「私は?」
ルリ子が、自分の持っているブイを持ち上げながら、聞いた。
「ルリ子は、大きいからブイの中に体がぜんぜん隠れていないよ」
「ルリ子の体格は、丸いものな」
32フィートのヨットオーナーの杉浦さんが、ルリ子に言った。
「私も、ブイも、両方とも丸いから、ブイが二つ歩いているみたい?」
ブイを抱えているルリ子が、笑顔で杉浦さんに答えている。
ふつう、小太りの女性に、体が丸いなどと、その女性の体格のことを話したりしないが、いつも明るくおしゃべりなルリ子には、ラッコのメンバーだけでなく、マリーナの誰もが、彼女に何も遠慮することなく接していた。
ルリ子も、体が丸い、と言われても嫌がる様子もなく、逆に自分の体の丸さをギャグにして笑顔で答えていた。
「ルリ子!早くブイを持ってきて!」
ラッコのデッキの上にいる隆が、ルリ子のことを大声で呼んだ。
「はーい!」
ルリ子は、片手にブイを持ちながら、脚立を登ってラッコに乗りこんだ。
ルリ子や佳代の持っていたブイは、今日の最終レースで使うブイだ。
二人が運んできたブイ以外に、ほかにも3個のブイが既に、ラッコのデッキに乗っていた。
「出航準備が終わったら、本部艇なんだし、皆よりも早めにレース会場に出発しよう」
隆が言って、マリーナのスタッフにクレーンで、ラッコを下ろしてもらって、レース海域に向けて出航した。
助っ人
いよいよ、横浜マリーナの今年最後のレースがスタートした。
いつもの通り、スタートと同時に、どの艇よりも早く一番でスタートしたのは、暁だった。
その暁の後を追って、ほかのレース艇もスタートしていく。
「相変わらず、暁は早いな」
参加艇のうち、比較的レースが上手で早いヨットがスタートしていってしまうと、いつも続いてクルージング主体でのんびりと走っているヨットたちがスタートして行く。
「全員、無事スタートしていったか」
最後の艇がスタートして行く姿を見送ってから、隆が言った。
「まだ、あと一艇」
ルリ子がレース参加各艇のスタート時刻を、記録しながら、隆に言った。
まだ、マリオネット一艇だけが、スタート出来ずに、スタートラインの内側でうろうろしていた。
セイルに、うまく風を受けられずにいて、セイルをバタバタさせながらうろうろしているようだった。このままでは、ゴールはおろか、スタートすら出来そうもない。
「ちょっと助けにいくか」
ラッコは、アンカーを上げて、エンジンをスタートした。
ゆっくり機走で、マリオネットの側に近寄った。
「大丈夫ですか?」
「風が吹いていないみたいで、うちのヨットは重いからぜんぜん走らないんですよ」
中野さんは、舵を握りながら、ラッコに返事した。
風が吹いていないと言っているが、ほかのレース参加艇は皆、しっかり風を受けてスタートしていた。
「風が吹いていないわけないじゃないか…」
隆は、マリオネットには聞こえないように小声で、麻美に文句を言った。
「そういうこと言わないの」
麻美は、苦笑しながら、隆の肘をつっついた。
「あぶない!」
隆が叫んだ。
その声に、マリオネットのクルーは皆、頭を低くした。
そのクルーたちの頭上を、マリオネットのブームが横切って、船の左舷の反対側から右舷に移動した。
ワイルドジャイブならぬワイルドタックしたのだった。
いきなりのブームの攻撃に、マリオネットのクルーは、唖然としていた。
「これは、駄目だ。佳代、一緒にマリオネットに乗って、手伝いにいこう」
隆は、佳代を誘って、マリオネットに乗り移った。
「洋子!ラッコのことは、後よろしく」
隆は、マリオネットの艇上からラッコの舵を握っている洋子に声をかけると、佳代といっしょにマリオネットでレースに参加した。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。