実家の快適さ

この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。

クルージング教室物語

第202回

斎藤智

隆は、会社の自分のデスクで仕事をしていた。

きのうは横浜マリーナから三崎まで暁を回航して、三崎から電車で戻ってきた。

きょうは月曜日なので、会社で仕事をしているのは当然といえば当然のことだった。

隆のいるのは社長室、その隆の斜め前のデスクが秘書の麻美の席だった。

麻美も、自分のデスクに座ってパソコンを使って仕事をしていた。

「ふふ、ふふふ」

隆がパソコンを前に仕事しながら、一人で急に微笑んでいるのを、麻美は不思議そうに見ていた。

「ど、どうしたのよ?」

麻美は、隆に聞いた。

「え、いや。なんか昨日の電車の中での洋子を思い出してしまって」

隆が答えた。

「よっぽど、麻美が俺と何か話があるのかと思っていたんだろうな」

隆は、洋子が電車の中で麻美を隆の横に座らせようとしていたことを思い出しながら言った。

「もしかして、今、俺がやってるこの仕事の打ち合わせでもするのかと思っていたのかな?」

隆はつぶやいた。

「俺は、会社の仕事のことは休みの日まで家にぜったい持ち込まない性格なんだけどな」

「違うんでしょ」

麻美は、隆が洋子たちの座らせた理由をぜんぜん理解してないのでツッコんだ。

「隆ってにぶいね」

隆は、いまだにぜんぜんわからないでいた。

「あのね、洋子ちゃんはね。私と隆のことを気を使ってくれたのよ」

「はあ?」

「だから、隆もにぶいわね。隆と私が仲良く一緒に座りたいと思ってのことよ」

「え?だって、麻美とは別にヨットでまで一緒にいなくても、いつもこうして会社で一緒じゃん」

隆が言った。

「はいはい、お仕事しましょう」

麻美は、鈍感な隆を仕事に戻させて、自分も自分の仕事の続きをはじめた。

その日の夕方、帰宅するとき、

「今夜はどうする?」

麻美が聞いた。

「今日も私の実家でお泊りする?」

「うん。お腹すいたし。お母さんが夕食作って待ってくれているだろうし」

隆が答えた。

最近、麻美の弟が、結婚して実家を出てお嫁さんと近くのマンションで二人暮らししているため、麻美の家は、麻美とお父さん、お母さんの三人だけなのだ。

だから、隆はもっぱら麻美の家で暮らしていた。

「ただいま」

麻美と隆が麻美の実家に戻ってきた。

「ちょっと隆さん、来て」

隆が家に入るなり、お母さんは隆のことを引っ張って部屋の中に誘導した。

隆がお母さんに連れてこられたのは、麻美の弟の部屋だった。

「あれ、空っぽじゃん」

二人のあとに続いてやって来た麻美が、弟の部屋をのぞいて言った。

「マンションに引っ越したでしょう。もう戻ってくる気ないみたいで、ぜんぶ荷物を持っていっちゃったのよ」

お母さんが答えた。

「だから、この部屋は隆さんが自分の部屋として使っていいからね」

お母さんが隆に言った。

「お母さん、隆のことがお気に入りだね」

麻美が言った。

「ええ、隆さんはずっとこの部屋で暮らしていいからね。なんなら部屋代もったいないから、こっちに引っ越してきちゃいなさいよ」

お母さんは、隆に提案した。

「え、でもいいんですか?別に俺は麻美のお婿さんってわけでもないのに」

「いいのよ。ずっとここで暮らしてくれて」

お母さんは言った。

「なんなら、あんたたち二人結婚しちゃいなさいよ」

お母さんは、麻美と隆に言った。

「あのさ、それってお婿さんってことなんだけど・・」

麻美は、えっとお母さんのほうを見てから、隆のほうを見た。

隆は、下を向いて頬を赤くしているだけだった。

KSKなプロポーズ?

麻美は、奥の書庫から折りたたみのベッドを持ってくると、元弟の部屋、いまの隆の部屋でベッドメイキングをしていた。

「ねえ、本当にここの部屋を俺の部屋にしてもいいのかな?」

隆は、麻美がベッドメイキングのシーツを敷いている姿を見ながらつぶやいた。

「いいんじゃない、お母さんが良いって言うんだから」

麻美は答えた。

「本当に、横浜の俺のマンションは引き払って、こっちに引っ越してきちゃおうかな」

「隆がそうしたいのならば、良いんじゃない」

麻美はタオルケットをセットしながら答えた。

ほかに麻美が何か言うかなと思って、しばらく隆は黙ったままでいた。

が、特に麻美は何もしゃべらず、沈黙が続いたので、

「いっそのこと、ここに引っ越してくるのならば俺も麻美と結婚しようかな」

隆はポツリと小声でつぶやいた。

「え、」

麻美が思わず隆のほうを見た。

隆が自分と結婚しようかな、みたいなことを言うのは初めてだった。

いや、結婚どころかデートとか何か恋人がするようなことも言われたことが一度も無かった。

今度は、麻美が隆の次の言葉を待っていたが、隆はそれっきり何も言わなかった。

隆のほうも、麻美が何か言うかと待っているようだった。

でも、麻美は何も言わずにベッドメイキングの続きをはじめる。

「あ、いや。ウソだよ、麻美と結婚だなんて。そんなわけないじゃん、ハハ」

隆はつぶやいた。

いつもなら、それに反応して麻美も否定してくれると思っていた。

「良いんじゃないの、隆が私と結婚したいと思うなら結婚しても・・」

麻美から意外な言葉を言われた。

「え、え?」

隆が麻美を見た。

「え、それはそうだよね。俺が麻美と結婚したいと思ったなら、そりゃ結婚したっていいよね」

隆はボソッとつぶやいた。

「そりゃそうよ、結婚したいって思ったなら、結婚したっておかしくはないわよ」

麻美はベッドメイキングを終えると、隆の頭をポンポンって叩いてから部屋を出ていった。

斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。

横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。


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