この度、横浜マリーナ会員の斎藤智さんが本誌「セーラーズブルー」にてヨットを題材にした小説を連載することとなりました。
クルージング教室物語
第158回
斎藤智
キャビンから美味しそうなパンケーキの匂いがヨットじゅうに漂ってきた。
「お腹が鳴るぅ」
隆は、その匂いを嗅いで、思わず自分のお腹を抑えた。
「私も。さっきからずっとお腹が鳴っているの」
洋子もお腹が鳴っていることを白状した。
「朝ごはん、出来たよ!」
デッキにいる皆のお腹がさんざん大合唱した後に、ようやくキャビンからお呼びがかかった。
皆は、キャビンの中に移動した。
コクピットで舵を握っていた香織も、ステアリングを手放しにしてキャビンに駆け込んでいる。
ほかのヨットならば、舵を握っている人が舵を放したら、ヨットはくるくる回ってどこかに行ってしまうところだ。
ラッコには、パイロットハウスが付いていて、船外の舵以外にも、船内にも舵が付いている。
船外で舵を取っていた香織が手を離しても、船内では、舵を佳代が握っていたから、ヨットは針路を外れることなく普通に走っていられるのだった。
パイロットハウスのサロンの上には、焼きたてのパンケーキがたっぷりハチミツがかかって並んでいた。
皆は、パイロットハウスのサロンの席に腰かけた。
いつもの食事ならば、パイロットハウス下端、ギャレーのすぐ目の前のほうのサロンで食べている。
そのほうがギャレーのすぐ近くなので、お皿など後片付けが楽なのだ。
航海中は、パイロットハウスのほうのサロンで食事する。
パイロットハウスのサロンは、四方がぐるっと大きな窓で囲まれているので、外の様子がよく見えるのだった。
「佳代ちゃん、食べ終わったら、私が舵代わってあげるからね」
「はい」
パイロットハウスで一人舵を握っている佳代は、麻美に答えた。
結局、麻美よりも先に、ルリ子が食べ終わったので、ルリ子が佳代と交代して舵を握っていた。
「もしもし、ラッコさん…」
皆が朝ごはんを食べているとき、無線機が突然鳴りだした。
「無線が呼んでいる」
パイロットハウスのステアリングを握っていたルリ子は、片手で無線機のマイクを手に取ろうとした。
「大丈夫よ。私が出るから」
両手でステアリングを持っていたルリ子に代わって、洋子が無線に出た。
「はい、こちらラッコです」
「こちら、マリオネット…」
無線の相手は、マリオネットの中野さんだった。
「え、マリオネット…。もしかして、また何かトラぶってるじゃないの」
無線から聞こえた中野さんの声に、雪が言った。
「こちら、初島沖合いにいます。アンカーロープが埋まってしまい、操船不可能な状態です…」
「アンカーロープが埋まったのですか?」
洋子は、中野さんに聞き返す。
「船がひっかかって動けません!」
無線から中野さんの悲鳴に近いような声が響いていた。
「どうしたらいい?」
洋子は、無線を待機してから、振り向いてパンケーキを食べている隆に聞いた。
「助けに行くしかないだろう。初島沖ってことはずいぶん先のほうに進んでいるんだね」
隆は、洋子に返事した。
「こちら、ラッコ。マリオネットさん、聞こえますか?」
洋子は、マリオネットに呼びかけた。
「はい」
「これから救助に向かいますので、そちらの正確な場所を教えてください」
「初島の沖合いです」
洋子は、パイロットハウスに付いているGPSのモニターを見た。
初島の沖合いと言われても広すぎて正確な位置はよくわからない。
「あのう、北緯とかでの位置わかりますか?」
「わからないよ」
「マリオネットさん、GPS装備していませんでしたっけ?GPSに表示されていませんか?」
「ああ」
中野さんは、洋子に言われて、初めて気づいたようにGPSのモニタを確認して、北緯東経で位置を示した。
洋子は、中野さんから無線で聞いた位置を、ラッコのGPSにインプットする。すると、GPSのモニター上に、マリオネットの現在位置が表示された。
「遠いかな。ここからどのぐらいかかるかな」
洋子は、チラッと隆のほうを振り向く。
「まだ1時間ぐらいかかるんじゃないか」
隆は、パンケーキをほおばりながら答えた。
そんな隆の頬張っているパンケーキを、麻美は隆の口から取って、お皿に戻すと、向こうは困っているのだからちゃんと聞きなさいと隆に、顔で合図するのだった。
洋子は、そのことをマリオネットに無線で伝えた。
マリオネットは、1時間かかってもいいからラッコの到着を待っていると返事してきた。
「ルリちゃん、もう少しだけスピードを上げようか」
洋子に言われて、ルリ子はエンジンのアクセルを少しだけ入れた。
「エンジンを上げたら、ジブのファーラーは巻いたほうがいいよね」
雪が言った。
食事を終えた洋子と佳代は、デッキに出ると開いていたジブセイルを巻きに行った。
熱海のすぐ近くで
横浜マリーナを出航して、一夜かけて東京湾、相模湾を横断して船は熱海の近くまで来ていた。
「このまま、まっすぐ行けば、熱海港に入れるのにな」
隆は、目の前に見えている熱海の街、熱海港を眺めながら、少し恨めしそうに言った。
「確かに…」
雪も頷いた。
ラッコの針路は、熱海港へとまっすぐには向かわずに、少し脇にそれて初島を目指していた。
初島の沖のどこらへんかわからないが、マリオネットが待っているはずなのだ。
「もうそろそろマリオネットが見えるかも」
GPSとにらめっこしていた洋子が言った。
皆は、船の前方を見渡して、マリオネットの姿を探していた。
「あ、いたよ!」
両眼が2.0と一番視力の良い佳代が、最初にマリオネットを見つけた。
「代わろうか?」
隆は、ステアリングを握っていたルリ子と舵を交代して、マリオネットに船を近づけた。
サイドデッキで、クルー皆は、マリオネットの船体がやって来たラッコの船体とぶつからないように押さえていた。
ラッコは真横に接岸した。
「どうしたんですか?」
「アンカーが上がらないんだよ。いくら引っ張り上げても、まったくウンともスンとも動かなくて…」
中野さんは、隆に言った。
横浜マリーナを出航したマリオネットは、エンジンの調子もよく、ラッコよりも遥かどんどん先に進んでしまい、ずいぶん前に熱海まで到着してしまったようだった。
そこで、熱海港に入港する前に、初島の沖合いでアンカーを打って朝ごはんを食べていこうということになったらしい。
アンカーは、無事に打てて、朝食を済ませて、さあ、熱海港に入港しようとアンカーを上げようとしたのだが、いくらやってもアンカーが上がらずに出航できなくなってしまったのだそうだ。
「もっと、ぐっと腰を落として引っ張りあげなきゃ上がらないぞ」
隆は、マリオネットの新人クルー、ヨット教室の男性生徒に声をかけた。
その男性クルーは、必死で腰を落として、アンカーロープを引っ張り上げようとしている。
「どれ、代わろうか?」
隆は、マリオネットに乗り移って、男性クルーと場所を入れ替わってアンカーロープを引っ張った。
「なんだ。これ。重いな」
隆が引いても、アンカーは全く上がって来なかった。
「手伝うよ」
一緒にマリオネットに乗り移ってきた洋子がアンカーロープを引っ張った。
「洋子ちゃんは、さすがに無理でしょう」
アンカーロープを引く洋子の細い腕を気遣いながら、麻美がラッコのデッキから心配そうに声をかけた。
ラッコの中で一番背の高い雪が、マリオネットに乗り移ってアンカーロープを引いてみる。
「なんか、ぜんぜん動かないね」
雪が引いても、アンカーはびくともしなかった。
「切るか…、アンカーロープ」
隆は、洋子にだけ聞こえる小さな声で言った。
隆と洋子は、ラッコに戻って来て、ラッコの船首に付いている電動ウインドラスに巻いてあったラッコのアンカーロープを外し始めた。
佳代もやって来て、二人の作業を手伝う。
「雪。アンカーロープを貸してごらん」
ウインドラスに巻いてあった自艇のアンカーロープを外し終わると、隆は、雪からマリオネットのアンカーロープを受け取り、ウインドラスに巻きつけた。
「ウインドラスのスイッチをゆっくり上げてみてくれるか」
隆の指示で、パイロットハウスにいたルリ子がウインドラスのスイッチを入れる。
「もう少しゆっくり!」
隆が叫んだ。
ルリ子は、うまくウインドラスを操作できずに、一旦スイッチを止めた。
佳代がパイロットハウスに走って行って、ルリ子に代わってウインドラスの操作をする。
「そのまま、ゆっくり、ゆっくり」
ウインドラスのモーターが回り、マリオネットのアンカーロープは徐々にだが、ゆっくりと上がり始めた。
海底のどこかで、アンカーはしっかりと絡んでしまっていたようだ。
斎藤智さんの小説「クルージング教室物語」はいかがでしたか。
横浜マリーナでは、斎藤智さんの小説に出てくるような「大人のためのクルージングヨット教室」を開催しています。